共通する言葉や礼拝について気づく
祈りとは全世界で共通している。
イスラム教では1日に5回メッカに向かって礼拝(サラート)を行う行為がある。
祈願、信仰行為、謝罪、嘆願を行う「礼拝」。同時に「祈り」は、アッラーの偉大さを前に頭を下げること、仕えること、そしてこの言葉は「結びつき」を意味しているそう。
礼拝の前にはウドゥ(小浄)といって、体の一部を洗う清めの行為をする。
簡単に言うと、
手、口、鼻、顔、手首から肘まで、耳、足
の順で流れる水を使って清めてから、礼拝にはいる。
礼拝を行うことで、全ての世の中の業務と思考から離れ、精神的に高まることができる。
日本語には
足を洗う=悪いことをやめる
という意味がある。
例:ヤクザ男「俺はこの業界から足を洗う」
ってよく聞くー!
仏教から出た言葉らしく、裸足で修行に歩いた僧は寺に帰ったときに、泥足を洗うことで、世の中の煩悩を洗い清めて入ったことから、悪い行いをやめる意味で用いられる。
神社でも参拝の前に手を洗うよね!
つまり、心と体も清めて祈る=自分と繋がることは同じ。
国や宗教や言葉は違えど、共通してることはあってもとは全部一つなんだなーと感じた。
あと、共通してると思ったのは
イスラム教にはハッド刑っていって窃盗をすると手首を切断される。(他にも公開むち打ちや石打ちの刑があるらしい)
ハッド→境界、限界という意味がある。
日本語にも主にそれまでにあった悪い関係、男女関係を断ち切るときに、例えで「手をきる」という言葉がある。
つまり、同じ意味だよね!
勝手な解釈だけど、
言葉はもともと一つだったんだと感じた。
知らないことを知れることは楽しい。